こんばんは、そうるです。
金曜日に飲んで終電で帰ってきて、軽くシャワーを浴びて落ち着いたらこんな時間になってしまいました。
…終電って、本当に遅くなってしまいます。
まぁ、「終わりの電車」なんだから当然ですけど。
ちなみに今日は終電が乗り継ぎの関係で15分ほど遅れてきたので、最寄り駅に着いたらもう1時半近かったです。…ほんとに遅い。
さてついさっき、そんな終電で読み終わったのがこちらです。
「頼子のために」@法月綸太郎
【あらすじ】
「頼子が死んだ」。17歳の愛娘を殺された父親は、通り魔事件で片づけようとする警察に疑念を抱き、ひそかに犯人をつきとめて相手を刺殺、自らは死を選ぶ──という手記を残していた。手記を読んだ名探偵法月綸太郎が、事件の真相解明にのりだすと、やがて驚愕の展開が!精緻構成が冴える野心作。
【ひとこと抜き出すなら】
――私は自分のことを観念の化け物だと思っています。
【感想】
観念。
「プラトンに由来する語「イデア」の近世哲学以降の用法に対する訳語で、何かあるものに関するひとまとまりの意識内容のこと。元来は仏教用語。 - - Wikipedia」
ということで、何かあるものに対する個人の主観的な考えのこと、と捉えていいようです。
観念の化け物。この言葉の意味はこの本を最後まで読めば自ずと知れてくるのですが(ストーリー的に最大のキーになる科白なので)、この本を読んでいない状態でこの「観念の化け物」という言葉に出会ったとしたら、どういった印象を受けるだろう、とふと思いました。
この科白を吐いた登場人物は下半身が不自由で、ベッドの上での生活を余儀なくされています。
もしそういった状態になったとしたら、自分で歩くことができなくて、本当に小さな世界のことしかわからなくなって、世間的な常識とか客観的なこととかの比重が、きっとどんどん自分の中では小さくなっていくのではないか、という気がします。そうして、ベッドの上でアテなく考えているさまざまなことに思考が支配されて、それが妄想であれなにがしかの論理であれ、その思考が一般的にはどのような形で受け入れられるものなのかということなどには興味を示せなくなって、ただただ「自分がどう思うか、どう感じるか」といった一点のみが重要になってくるのではないか。
その状態をひとことで表した語句が「観念の化け物」なのではないか、と。
化け物だということは、もう観念でしかない存在で、自分の思考が何よりも大切で。それが他者にどんな影響を与えるのか、なんて、言いすぎれば「どうでもいい」わけで。
そんな、思考能力だけは成熟した大人のくせに、その回路が傍若無人で我儘なガキと同等になってしまった救いようのないこの科白の主に、でも何故か同情するし哀れに思えてしまう。
それは、下半身不随、という設定のためだけではなくて。
風邪を引いて寝込んだり入院してひとりきりだったり、誰にでも大なり小なりある不自由な時間を持て余したときに、覚えのある感情だからなのではないかと思う。
ネガティブなことを考えだしたら止まらなくて、自分で生み出したその思考に囚われて、自由の利かない体にいらついて、周囲の人の優しさまで根拠なく疑ってしまったりして。
観念。
定義の難しい言葉だけれど、こうして考えてみて、ちょっと飛躍するけれども、
ああ人間だなあ、なんて。
そんなことをふと思った真冬の夜さがり。
2010/02/06
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